恋をしている。
 自分の・・・兄であるあの人に。





 










  「シン、今日私とお父さんね、仕事で帰って来れないの。」

 食卓に座って、いつものように朝食をとっている時、俺の向かいに座っていた母さんが申し訳無さそうにそう口にした。
 これは今に珍しい事ではない。
 俺が小さい頃から、両親の仕事は忙しくて家を空けることが多かった。
 寂しくない、と言えば嘘になると思うけれど、でも俺はたまにあるこんな日を心待ちにしている。

 「いつもごめんね・・・、今日もキラ君に電話しておいたから、学校終ったら迎えに来てくれるって言ってたわ。」
 「・・・うん。」

 母さんの寄せられた眉とは逆に、俺は緩みそうになった唇を慌てて引き締めた。
 誤魔化すようにパンを頬張る。

 キラは、歳の離れた俺の義理の兄。
 二年ほど前までは一緒にここで暮らしていたけれど、大学進学と共に一人暮らしを始めた。
 けれど今のキラの家は、ここからさほど離れた場所にあるわけではない。
 だから父さんと母さんの仕事が忙しいときには、キラと一緒に夕食を食べたりしている。

 「・・・それとね、シン・・・もう一つ謝りたい事があるの・・・」
 「・・・?」

 俺はパンに噛り付いたまま、向えに座った母さんに視線を合わせた。
 母さんはさっきよりも顔を曇らせて俺の顔を見ている。
 そしてゆっくりと言いずらそうに口を開いた。

 「・・・・・あなたの誕生日の日ね・・・・・・・・・・」
 









 いってきます、そう父さんと母さんに声をかけて俺は家を出た。
 教科書なんてろくに入っていない軽い鞄を肩にかけ、ゆっくりと学校への道を歩いていく。
 今日は早めに家を出たから、いつもよりも外に出ている人は少ない。
 俺と同じ制服を着ている人も片手ほどしか見ない。
 空を見上げれば快晴。
 眩しい朝の太陽の光が気持ち良くて、自然と目を細めた。

 「シン、おはよう!」
 「ぅわっ!」
 
 急に背中を押されて身体が前に傾いて。
 なんとか体制を整えると、俺は背後にいるだろうその犯人をきっと睨み付けた。

 「なにすんだよ、ルナっ!」

 けれど、俺がいくら睨みつけてもルナマリアは平然とした顔をして腕を組んでいる。
 その隣に立っているメイリンはどこか呆れたような顔をして俺を見ていた。

 メイリンは俺と同じクラスで、ルナマリア・・・ルナはメイリンの姉。
 学校で話すことなんて全く無いけれど、こうして朝の時間に何度か会っているうちに仲良くなった。
 メイリンもルナも話しやすくて、楽しいんだけれど。
 どこか俺で遊んでいるような雰囲気が見えるのは、少し・・・いや、かなり気にくわない。

 「ちょっとした朝の挨拶じゃない。」
 「どこがちょっとしただよ!転びそうになっただろっ!」
 「あんなので転びそうになるなんて・・・情けないわねえ。」

 こう言われていつもの俺なら更に詰め寄るところだろう。
 でも、今日はそうする気がおきなくて。
 俺はルナに背を向けて学校への道を再び歩き出す。
 そんな俺にルナは首を傾げ、先を歩く俺の隣に着いて歩き出した。
 メイリンもその後を小走りで着いてきて、ルナの隣を歩いている。

 「あら?今日は機嫌がいい?」
 「まあね。」

 機嫌がいいのは本当だと思う。
 俺は素直に頷いた。
 だって今日はキラに会える。
 早く会いたくて、そう思うとキラの顔しか頭に浮かばなくなって。
 自然と頬が緩むのが分かる。
 まだ学校にも着いていないというのに、今から早く学校が終る事しか考えられない。

 「もしかして・・・キラさん絡み?」

 ルナに顔を覗きこまれて言われた言葉に、俺は目を見開いた。

 「な、なんで・・・っ!!」
 「シンがこんなに機嫌いい時なんて、キラさんが絡んでる時しかないじゃない。」

 みるみると自分の顔が赤くなっていくのが分かった。
 ルナは含み笑いをして、俺の顔を見ている。
 そんな俺達に大きな瞳を何度も瞬きさせてメイリンが首を傾げた。

 「キラさん?」

 語尾が上がるメイリンの声に、ルナは俺から目を離してメイリンと向き合う。

 「シンのお兄さんよ。メイリンは知らない?」
 「うん。」

 それもそうだ。
 俺はキラのことをあまり人に話さない。
 メイリンが知っていたら、それこそ俺が驚く。

 「あたしも一度しか会った事ないんだけどね、すっごく綺麗な人よ。初めて見たときかなり驚いたわ。」

 あれは偶然だった。
 あの日も今日みたいに父さんも母さんも仕事で帰って来る事が出来ない日で、俺はキラと一緒に近くのファミレスで夕食を済ましていた時だった。
 たまたまそこにルナが友達と一緒に来ていて、ちょうど鉢合わせしてしまったのだ。
 俺の隣にいたキラを見たルナは呆然として。
 そして、キラに笑いかけられた途端に顔を真っ赤にしていた。

 無理もないと思う。
 キラは弟の俺から見ても、その辺の人じゃ適わないくらい綺麗で。
 そのキラに微笑まれて普通でいられるはずがない。
 俺だって、キラの笑顔を見たらいつも心臓がうるさいくらいに動いてしまうというのに。

 「お姉ちゃんがそこまで言う人?」
 「言葉では表せないわね。」

 メイリンのどこか信じられないというような言葉に、ルナは深く頷いた。
 ルナの男を見る目はかなり厳しい。
 頷いて見せたルナに、メイリンは素直に驚いている様子だった。

 そのルナにここまで言わせた人は、今までキラと・・・それとルナのバイト先の先輩のアスランさん、この二人くらいだ。
 ルナからアスランさんの名前を聞いた時はかなり驚いた。
 アスランさんはキラの親友とも言える人で、昔から遊んでもらったりしていたし、今でも頻繁に連絡を取っている人だから。
 でも、このことをルナに言うのはやめておいた。
 言ったら最後、ルナの質問攻めがくるのが分かっているからだ。

 「で、今日はそのキラさんとお出かけ?」

 ルナは再び俺に視線を戻して。

 「・・・ん。」

 聞かれた言葉に俺は小さく頷いた。




 俺は恋をしている。
 自分の兄に、俺は恋をしてしまったのだ。
 気付いたのはもう二年も前のこと。
 キラが家を出たのがきっかけだった。

 二年前の春、キラは有名な医大への入学と同時に家を出る、と俺に告げた。
 その日は、いつも通りに学校から出た宿題をキラに教えてもらいながら片付けていた時だった。
 急に言われた言葉に俺は宿題を終らせる事も忘れて、兄の身体に泣きながらしがみついて。

 だって、思いもしなかった。
 楽しいときにも嬉しいときにも、悲しいときだって、いつもキラは俺の隣にいて。
 父さんや母さんが仕事で遅くなっても、キラがいてくれたから寂しいと思うこともなかった。
 何か辛い事があってもキラが優しく笑ってくれたから、俺も笑っていられたのに。
 それなのに、キラがいなくなってしまう。
 どんな時でも傍にいてくれた大好きな兄が、ここから離れるなんて思いもしなかった。

 『遠い場所に行くわけじゃないよ?会おうと思えばいつだって会えるんだから・・・』

 いつまでも泣きやまない俺の背中を撫でながら、キラはそう言った。
 それでも俺は首を振って声を上げて泣き続けて。
 キラの新しい家は、キラの言うとおり離れた場所ではなかった。
 いつだって会えるような場所だった。
 
 でも、でも俺は・・・

 会おうと思わなきゃ会えない場所になんて行ってほしくなかった。
 どんなに短い距離だろうと離れたくなかった。

 けれど、どんなに行かないでと言っても。
 涙が枯れるほどに泣き腫らしても。

 キラはいつか見たような、今にも泣き出しそうな顔で、

 『ごめんね・・・』

 そう小さな声を出して、俺を抱き締めるだけだった。


 それから、この気持ちに気付くのにそう時間はかからなかった。
 どんな時でもキラのことばかり考えている自分に気付いて。
 父さんと母さんが仕事で遅くなる日を心待ちにしている自分がいた。

 それに今まで楽しいと思えたことが急につまらなくなってしまった。
 ゲームをしていても、テレビを見たりしても全然楽しいと思えなくなって。
 どうしてだろう、と一人で考えるとすぐに分かった。

 キラがいないから。
 いつも隣にいたキラが、いないから。

 楽しいと思っていた時には、いつだって隣にキラがいた。

 キラが隣にいることが俺にとってあまりにも大事で。
 キラの存在が俺にとって大切なことすぎて。


 キラのことが、好きすぎて。


 そして、自分の想いを知ったこの日。
 報われることのない恋と、隣に兄がいないことに。
 俺は使っていた時のままにしてある兄の部屋で、兄の温もりを探して涙を零した。
 



 授業が終ってすぐに、軽い鞄を掴んで教室を飛び出した。
 下校時で人で溢れ返っている廊下を玄関だけを目指して駆けていく。
 途中何度か人にぶつかった。
 それでも立ち止まらないで、階段を駆け下りて。
 外靴に履き替えて校門を潜り抜けた時。
 見覚えのある黒い車を見て、俺は目を見開いた。

 「キラ兄!?」

 驚いて名前を呼ぶと、ガラス越しにキラが俺に手を振って。
 まさかここにキラが来ていると思わなくて、俺は急いで車に駆け寄ると窓の開いた運転席に手を置いた。

 「な、なんでいるの?!」
 「僕がここにいちゃダメ?」
 「ダメなわけない・・・っ!でも授業・・・」

 形の良い眉を寄せて首を傾げたキラに慌てて否定し、俺は混乱しながらもなんとか口を動かす。

 「休講になったんだ、それで今ここに来たら一緒に帰れるかなって思って。」

 こんなことで俺は、空を飛べそうなくらい舞い上がってしまう。
 少しでも長くキラといられることが嬉しくて。
 
 「でも、とりあえず着替えなきゃね。一回家寄ってから出かけようか。」

 笑顔で言われて、俺も笑って頷いた。
 助手席に回りその中に身体を滑り込ませる。
 俺がシートベルトを着けた事を確認したキラは、慣れた手つきでハンドルを握りアクセルを踏んだ。








 「もうすぐ誕生日だよね?プレゼント何がいい?」

 夕食を食べ終えて、家へと帰る頃にはもう外は真っ暗だった。
 どんなに時間が過ぎる事を嫌がっても、無情にも時間は進んでいく。

 家の前に車を止めたキラはハンドルから目を離し、シートに座り直して俺と目を合わせた。
 こうして止めた車の中で言葉を交わすのはいつものこと。

 「何でもいいの?」
 「年に一度のシンの誕生日だからね、奮発するよ。」

 俺の誕生日まで、ちょうど二週間をきっていた。
 俺の問いにキラは優しく頷いて、俺の髪に手を伸ばす。

 「じゃあ・・・」

 キラの指が俺の髪を絡めるように撫でている。
 キラに触れられると、全神経がそこに行ってしまうのではないかというほど、そこばかりに気持ちが集中してしまって。
 俺は俯いて、小さく口を開いた。

 「キラ兄がいい。」

 髪を撫でていたキラの動きが止まる。
 離れていった手を寂しく思って顔を上げると、キラは目を見開いて固まっていた。
 こんなキラの姿を見るのは、初めてだ。

 「父さんと母さん、仕事なんだって。だからキラ兄に俺の誕生日一緒にいて欲しい・・・って思ったんだけど・・・」

 今日の朝、母さんが申し訳無さそうに俺の誕生日にも泊まりの仕事が入ってしまったと言っていた。
 多分母さんのことだから、このことは事前にキラに連絡がいくと思う。
 キラもいつものように頷いて、今日のように夕食を食べに連れて行ってくれるのだろう。
 でも、俺はキラと過ごせる時間が欲しかった。
 母さんに言われたからとかそういう理由じゃなくて、自然にキラと一緒にいたかった。

 「・・・一緒にいるよ?当たり前じゃない。」

 キラは少しの沈黙の後、俺にいつもの顔で笑いかけた。

 「本当に?」
 「うん、大事な弟の誕生日だからね。」

 弟。
 分かっているけれど、どうしようもない事実だけれど。
 キラの口から言われてしまうと、この恋が報われないということを嫌でも自覚してしまう。

 最近ずっと考えていた。
 報われない恋でもいい。
 俺だけが、この気持ちを知っていればいい。
 義理だとしても兄弟という絆がある限り、何があっても俺はキラの隣にいられる。
 俺の居場所だと言っていられる。

 けれどいつかキラも結婚して、その隣に誰か。
 俺以外の誰かが並ぶ時がきっと来る。
 それを考えると胸が痛くて、本当はとてもとても嫌だけど。

 キラには幸せになってほしいから。
 笑って受け入れたいから。

 だがら、それが出来るように『弟』としてでもいいから、出来るだけの時間をキラと一緒にいたくて。
 少しでも、一緒にいられる時間を増やしたくて。

 「あ、あのさ・・・俺最近考えてたんだけど・・・」

 俺は思い切って口を開いた。
 キラの顔を見るのが怖くて、俯いて自分の膝に視線を合わせる。


 「キラ兄の家に引越しちゃだめ?」


 キラがどんな顔をしているのかは分からない。
 俺はそのまま言葉を続けていく。

 「最近父さんと母さんいつも帰り遅いし、学校もキラ兄の家からでも充分通えるし・・・それに俺、キラ兄と一緒がいい・・・」
 「・・・シン、それは・・・」

 聞こえたキラの声は、どこか戸惑っているように感じた。
 素直に頷いてくれるとは思っていなかった。
 頭の中で必死に言葉を考えて、並べていく。

 「俺さ、昔みたいに身体弱いわけじゃないし、家事だって出来るようになったし、部屋だって散らかさないから・・・っ!!だから・・・」
 「シン・・・」

 膝の上で握り締めた手のひらを、上からそっと包まれる。
 手の甲にキラの体温を感じて、恐る恐る顔を上げた。

 キラは、戸惑いと困惑が混じったような・・・少し悲しそうな顔をしていて。

 その表情を見た瞬間に俺の中の何かが、さあっと音を立てて流れていった。

 「ご、ごめんなさ・・・、俺・・・っ」

 俺はきっとどこかで、最後にはキラはいつものように笑ってしょうがないねって。
 そう言ってくれると思っていた。
 こんなにキラを困らせることだと思っていなかった。

 あの頃と何も変わらない。
 熱を出して、寝込む度にキラに迷惑をかけていた。
 あの頃のキラの歳と、俺の歳はほとんど同じだ。
 思い出してみれば、病弱でいつも寝込んでいた面倒な弟を押し付けられて、キラはどんなに嫌な思いをしただろう。

 もっと遊びたいと思うこともあったと思う。
 自分のやりたいこともいっぱいあったと思う。

 けれど、どんな時もキラはそんなこと顔にも言葉にも出さずに、ただ俺の傍にいてくれた。

 俺は自分があの頃よりも成長したと、大人になったと思っていた。
 でも、何も変わっていない。

 キラに面倒ごとばかりを押し付ける、ただの小さな子供のままの自分。


 「俺、昔からキラ兄に迷惑かけてばかりだ・・・なんも変わってない・・・」
 「そんなこと・・・っ」


 キラの手が包んでいた俺の手を、きつく握って。


 「もう、いいから・・・!!取り消すから・・・っ!!」


 俺はその手を振り解いて、ドアのロックに手を掛けた。


 「もう・・・馬鹿なこと言わないから・・・」
 「シン・・・っ!!」


 逃げるように車から飛び出して、俺は呼ばれた名前に一度も振り返らずに家の中へと駆け込んだ。
 閉まったドアに背中を預けその場にずるずると崩れ落ちる。





 流れ出てくる涙を止める方法なんて、俺には・・・分からない。






←back/top/next→