ねこ 1



 地面を叩きつけるような雨の中。
 その中を俺は自分の住むアパートまで、出せるだけの早さを出して走り抜けていた。

 学校からは歩くと30分近くかかってしまう距離にある俺の家。
 全力を出して走っても、15分はかかってしまう。


 「天気予報見てくればよかった・・・っ!!」


 そう嘆いても後の祭り。
 傘を忘れた俺には、走って帰る以外の道は残っていなくて。

 電車やバスを使えればいいのだけれど。
 二年前に家族を亡くした俺には、交通費さえも惜しい程に切り詰めた生活が強いられていて。
 友人達は、そんな俺を気遣ってか家まで送るとまで言ってくれた。
 けれど、そこまで気を使わせることが悪く感じてしまって、俺はその申し出を断ったのだ。

 だから勢い良く学校を飛び出して・・・そして今の状況。

 着ていた制服などずぶ濡れになってしまっている。
 履いているスニーカーの中にも、容赦なく雨水が入り込んで気持ちが悪い。
 きっと鞄の中も、大変なことになっているのだろう。

 俺は一分でも一秒でも早く、と。
 そう思いながら道を駆け抜けていた。



 「・・・あれ?」



 けれど、ふと目に入った道の片隅に丸まっている小さな・・・それ。
 方向を変えてそこに走りより、覗き込む。
 そこには雨に打たれてぐったりとしている、小さな猫がいた。

 見た途端に、死んでいる、とそう思った。
 
 良く見れば片方の前足からは血が流れていて。
 怪我をしていることが、すぐに分かった。


 「・・・事故・・・?」


 俺は、雨に打たれているのも構わずに、その猫の傍らへと膝を落とす。
 触れようと伸ばした手が、小刻みに震えているのが自分でも分かって。

 それは雨に打たれて冷えたからではない。

 思い出したんだ。


 父さんと母さんと・・・マユが、死んだ時の事を。






 二年前の夏に。

 家族で出かけた旅行先で、俺はマユが前から欲しいと言っていた、キャラクターの付いたストラップを見つけて。
 プレゼントして驚かせてあげようと思って。

 俺は本当に理由は言わずに一言だけ家族に断って、一人で・・・その店へ向かった。

 マユの驚いた顔と喜んだ顔が同時に頭に浮かんだ。
 それだけで俺は嬉しいから。
 手の中にある綺麗に包装されたストラップを、落とさないようにしっかりと握って。
 急いで家族の待つその場所へと走って行った。

 マユの喜ぶ顔が見たかった。
 父さんだって、母さんだって・・・俺だって皆笑っている筈だったのに。


 その場所へ戻った俺が見たものは。

 赤い血にまみれた、家族の姿だった。



 その時も交通事故で。
 運転手が居眠りをしていた大型トラックに撥ねられ、俺の家族は俺だけを残して皆死んでしまった。






 あの血まみれの家族の姿と、今目の前に横たわっている猫の姿が重なって見えて。
 俺は震える手で、そっと雨に濡れたその身体を撫でた。
 ふわりと掌で優しく撫でると、指先に微かに感じる温もり。

 温かい体温。
 懸命に生きようとしている、生命の証。


 「生きてる・・・っ!」

 
 俺はすぐに自分の着ていたブレザーを脱ぎ、その泥で薄汚れた小さな身体を包み込んだ。
 水を吸ってしまっているけれど、でも無いよりは良いと思ったから。

 「頑張れっ!死ぬなよ・・・っ!!」

 そして少しでも暖めようと両腕で抱え込んで。

 頑張れ、死ぬなと。

 何度も腕の中のそれに言い聞かせながら、俺は再び雨の中を駆け出した。




























 「キラさんっ!!!」


 駆け込んだ先は、近所にある病院。
 休診という文字が電光掲示板に光っていたけど、俺は気にせずに勢い良くドアを開けた。
 そして診察室まで一気に駆け抜けていく。


 「シン?どうしたの?。」

 突然現れ、しかも全身を雨に濡らした俺を見てキラさんは目を丸くした。
 椅子から立ち上がり、俺の傍らへと小走りで走りよってくる。

 キラさんは、ここで医者をしている中の一人。
 医者としての腕もいいことも、その人柄の良さも評判だけど。
 家族を亡くし、一人暮らしの俺を色々と気遣ってくれていて。
 俺はそれに甘えて、よく怪我や病気もしていないのに遊びに来る事が度々あった。

 「キラさんっ!!猫が!!道路で倒れて・・・っ!!」
 「シン、落ち着いて・・・猫がどうしたの?」

 すっかりと焦ってしまっている俺とは逆に、キラさんは冷静な対応を見せる。
 キラさんの吸い込まれるような紫の瞳。
 それを見て、乱れていた自分の心が幾分か落ち着いていくのを感じた。

 「ね、猫が・・・道路で倒れてて・・・死んでると思ったんだけど、まだ温かくて・・・。」
 「猫って・・・君が抱いてるそれ?」
 「うん・・・」
 「見せて・・・」

 言われてブレザーで包んでいた猫を、そっとキラさんの腕へと手渡す。
 キラさんは優しい手つきで近くにあったベッドの上へと、ブレザーと一緒に下ろして。
 包んでいたブレザーがキラさんの手で広げられると、出てきたのは未だにぐったりとしたままの小さないのち。
 自分の顔がさあっと音を立てて青褪めていくのを感じた。

 「・・・この聴診器でも大丈夫かな・・・」

 当然この病院は、動物病院とは違うから専門の用具など置いてあるはずも無く。
 キラさんは首にかけていた聴診器を、猫の胸へと優しく当てた。
 真剣なキラさんの横顔を見ながら、俺は何も出来ずにただ黙っていた。

 気持ちだけが焦ってしまって。
 手が震えて、歯もかちかちと音がするほどに震えていた。

 命の灯が消え去る瞬間。
 あんなに哀しいものは、見たくない。

 「・・・・・・心音は聞こえる・・・」
 「本当っ?!」

 聴診器を何度か動かした後に、キラさんは小さな声でそう言った。
 俺はその言葉に、飛び上がるくらいに喜んだ。

 「でも・・・本当に弱くて、これ以上このままにしとくと・・・」
 「・・・っ!!」
 「とにかく、早く動物病院連れて行って、獣医さんに見てもらおう?」

 そうすれば、きっと大丈夫だから・・・

 俺を安心させるように、キラさんは優しく微笑んで。
 綺麗なタオルを何枚も手に取ると、それらで猫を優しく包み込んだ。
 

 「君もすごく濡れてるね・・・風邪引いちゃうよ・・・?」
 「俺は大丈夫だから、だから・・・早く行かないと・・・っ!!」
 「・・・シン・・・」


 自分のことなんて今はどうでもいい。
 目の前にある消えかかっている小さな命の方が、ずっとずっと脆いから。

 俺は何重にもタオルで包まれた猫の身体を、優しく抱きこんだ。

 
 お願いだから元気になって。
 お願いだから死なないで。
 お願いだから、ここから消えてしまわないで。


 俺にはそう、ただ祈ることしか、出来ない。













 








 キラさんが連絡をしたのか、病院を出ると一台の車が止まっていて。
 一体誰の車だろう、と。
 そう考えていた俺の背中に、キラさんは優しく手を添える。

 「アスランだよ、早く乗って。」

 アスランさんはキラさんと同じ病院で働く、医者の一人で。
 キラさんと同じように俺を気遣ってくれていて、そして俺も慕っている。

 その名前を聞いた俺は少し安心して、キラさんに促されるままに後座席へと乗り込んだ。


 「シン・・・っ!お前そんなに濡れたままで・・・っ!!風邪を引くだろっ?!」

 「ア、アスランさん・・・」


 ドアを閉めると、後へと顔を向けて俺を見たアスランさんは目を見開いた。
 そして、その表情のままで俺に言葉を浴びせて。
 どう答えたら良いか返答に困ってしまう。
 そんな俺の代わりかどうかは分からないけれど、助手席に座ったキラさんがアスランさんの頭を思い切り叩きつけた。
 ばしっ、と気持ち良いくらいの音が車内に響く。


 「いたっ!キラ、お前・・・っ!!」
 「いいから早く動物病院行って!!ここからだったら・・・あの大きい通りに出たところが一番近いから、そこ!!」
 「だからって、殴る事・・・」
 「早く!!」


 キラさんの剣幕に押されたように、アスランさんは本当に急いで動物病院まで車を走らせてくれた。
 急いでくれてはいるけれど目的地につくまでは、十分近くはかかる。
 その間も、俺は車内で腕に抱いた猫を暖めようと必死だった。
 タオルから出た小さな頭に頬を当て、身体を丸めて俺の全部の体温が伝わるように、優しくそっと抱き込んで。

 それしか出来ない俺は、もどかしさと悔しさに唇を噛み締める。


 生きて。
 生きて。
 生きて。
 生きて。
 生きて。

 ・・・俺を置いて、行かないで・・・。
 

 無意識の内に流れた一滴の涙が、頬を伝って猫の頭にぽとりと落ちた。




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