4.背中の視線が痛い 「・・・う・・・そだろ・・・?」 思わずそう、呟いてしまうほどに俺は驚いていた。 人込みの先にある掲示板に貼られた大きな紙、普段はどうせ自分の名前なんてないだろうと見ることはないけれど、今日は別。 この紙面に俺の名前が無ければ、今までの人生で一番の大問題になりかねないからだ。 『100番以内に入らなければ、冬休みは補習』 勉強嫌いな俺が、全国でも指折りと言われるほどに頭がいい進学校で100番以内なんて絶対無理。 入学出来たのだって、陸上推薦。 部活にしっかりと出て、陸上でいい成績を残して・・・それと授業に出るだけ出れば卒業は約束されていて。 けれど、身体を動かすことばかりで頭を働かせようとしない俺を見兼ねたのか、担任はテスト一週間前に差し掛かったあの日、あんな恐ろしい事を言ってのけた。 待ちに待った冬休みが勉強漬けだなんて冗談じゃない。 でも100番以内なんて、逆立ちして町内一周よりも遥かに難しい。 そんなことを考えて机に伏せていた俺に、この有名進学校の中でも1,2を争う頭脳の持ち主・・・そしてどうしてだか毎日飽きずに俺に告白攻撃をしかけてくるアスランさんとキラさんはこう言った。 『勉強合宿しようっ!』 言われた時は何事か、と思った。 勉強合宿。 つまり、テストまでの一週間、この二人が俺の専属家庭教師をしてくれると・・・。 そう言われたあの時は、嵐の海の中に放り投げられて、もう、駄目かも・・・俺、このまま海の藻屑になって消えちゃうんだ・・・と、そんな絶望心にちょうど浸っていた時で。 そんな状態の時に、沈みそうもない大きな豪華客船が助けにきてくれたら誰だって縋ってしまうだろう。 ・・・そう思いたい俺は、アスランさんとキラさんの言う『勉強合宿』に参加させて貰う事にしたのだけれど、すぐに後悔することになる。 合宿会場であるアスランさんのマンションに行く道中、俺はアスランさんとキラさんに両脇をキープされ、しかも両手をしっかりと握られながら一週間勉強漬けの毎日を想像してぐったりとしていた。 けれど、それ以上に気に掛かったのはアスランさんとキラさんの勉強時間、について。 こんな俺につきっきりで家庭教師なんてしていたら、きっと・・・いや絶対に自分達の勉強する時間などないだろう。 学年首席を争う二人。 俺以上に成績を落としたくはないだろうに。 よく考えてみれば、本当にいいのかとか。俺なんかについてる暇が本当にあるのだろうかとか。 色んな考えが頭を過ぎる。 ・・・しかし、俺は忘れていた。 この二人があの・・・アスラン・ザラとキラ・ヤマトであることを・・・ 『シンが100番以内に入れたら、僕達にキスのご褒美。』 『入れなかった時は・・・覚悟しておけよ?』 思わず見惚れてしまうような綺麗な表情で、キラさんとアスランさんが言った言葉。 ・・・それってどっちにしても、俺どうなっちゃうの? けれど時既に遅し。 俺は二人に引きずられて、アスランさんのマンションへと連れてこられてしまったのだ。 アスランさんのマンションは、広かった。 本当に一人暮らしか、とそう疑ってしまうほどには広かった。 俺には縁のない・・・所謂億ションというものだろうか。でも、どこか上品な雰囲気を漂わせる白い建物。 階数も相当なもので、最上階は20階か・・・もしくはそれ以上。 「適当な場所に座ってていいから。」 呆然と案内されたリビングの入り口で突っ立っている俺にアスランさんがそう声を掛ける。 「僕、ミルクティー。」 「分かった・・・シンは、何がいい?」 突然掛けられた問い。 呆気にとられながら部屋を見渡していた俺は、質問の内容がすぐに頭の中に入ってこなくて。 「えっ?!な、なんですか?!」 上ずった声を返してしまった。 そんな俺の返事に二人は目を見開いて、けれどすぐに小さく笑みを零す。 「何か飲みたいものあるか?大抵のものは出来るから。」 優しく、もう一度質問を繰り返してくれたアスランさんに、俺は不思議な気恥ずかしさに苛まれて。 「・・・あ、え・・・じゃあ、コーヒーで・・・」 「カフェオレじゃなくて?」 「コーヒーでいいですっ!!」 了解、と言い残してアスランさんはキッチンに向かっていった。 残された俺は無意識の内に溜め息を零す。 「・・・緊張してる?」 「ぅわあっ!!」 急に耳元で聞こえた声に、俺はその場に飛び上がるような勢いで反応してしまった。 俺は耳が弱い。 そして、それに気付かせてくれたのは、誰でもないこの二人で。 その二人の内の一人、キラさんは綺麗な紫色の瞳を細めて柔らかく笑った。 「そんなに驚かなくてもいいじゃない?」 「い、いきなり耳元で喋るから・・・!!」 「ああ、そっか。シンは耳弱いもんね。」 分かっているならしないで下さい。 「・・・あのね、シン。」 「・・・?何ですか?」 耳を抑えて、隣に立っているキラさんに視線を向ける。 「さっき言ったでしょう?テストまでは何もしないって。僕達は君のことが好きで、触れたくないって言えば嘘になるから言わないけど・・・」 「は、はあ・・・」 「この一週間は、本当に勉強のことしか考えてないから。」 それに、とキラさんは言葉を続けた。 「折角の冬休みにシンが補習なんかになったら、僕達がつまらないからね。」 その言葉の意味が分からずに首を傾げると、キラさんは気にしなくていいよ、と微笑んで。 俺はますます訳が分からずに眉を顰めた。 「・・・何立ったままでいるんだ?」 温かそうな湯気が立ち上るマグカップとコーヒーカップを載せたトレーを持ったアスランさんにそう言われるまで、俺は自分が未だにリビングの中央にも行っていない事に気がつかなかった。 実際、アスランさんとキラさんの家庭教師は凄い、としか言いようがなかった。 最初の一日で行った簡易テストと俺のノートの書き方だけで俺の実力を抑え、分かり易く、かつ丁寧に教えてくれる。 理解できない・・・というか、その複雑さに理解しようとも思わなかった数学の公式、英文の文字列、古文の長文までもが頭の中に浸透しているようで。 俺ってやれば出来たんだ、と思えるほど。 その上、キラさんとアスランさんが交互に作ってくれる毎晩の食事は、信じられないほどに美味しくて。 一人暮らしを始めてから暫く食べていなかった手作りの料理に、思わず涙ぐんでしまうほど感動した。 それにキラさんが言っていた通り、合宿中は本当に寝ても起きても勉強、勉強で、いつもの告白攻撃が消えたように無く。 その事に、少しの安心とどこか落ち着かないこともあったけれど・・・。 高校受験も勉強が必要なかった俺が、こんなにも必死で勉強したのは始めてで。 それでも、ここまで頑張っていられたのは、やっぱり二人のお陰。 そして一週間後。 遂に運命のテスト当日を迎えた。 「やっと終わったー!」 「「お疲れ様」」 言いながらテーブルの上に載せられた料理を、俺はゆっくりと味わう。 テストから解放されたこの日。 『頑張ったねパーティー』ということで、俺はアスランさんの家で合宿最後の一日を過ごしていた。 テーブルの上に並べられた、一週間の中で一番美味しそうで、品数豊富な料理の数々。 二人の料理はいつだって美味しかったけど、テストから解放された今ではその美味しさも二倍、三倍。 夢中で箸を進める俺を、二人は微笑みながら見ていた。 「どうだった?出来た?」 「もう、バッチリ!!あんなにテストが簡単だと思ったの生まれて初めてです!」 「それは良かった。俺達も頑張った甲斐があったよ。」 まるで自分のことのように、キラさんとアスランさんは嬉しそうに笑ってくれて。 その笑顔を見て、俺は改めて小さく頭を下げた。 「・・・あの、本当にありがとうございます。」 「?」 「俺なんかの為に、家庭教師してくれて・・・」 きっと、あのまま一人で勉強していたら補習は確実だっただろう。 アスランさんとキラさんが、時間も惜しまないで一生懸命俺の相手をしてくれたから、今笑っていられる。 「そんなことか。気にするな、俺達も楽しかったし。」 「うん、一週間ずっとシンといられて嬉しかったし。」 二人のその言葉に、俺は胸の奥に込み上げてくる何か熱いものを感じた。 本当にこの二人は頭が良くて、スポーツも出来て、優しくて、カッコよくて、しかも料理までが一流・・・改めて凄い人達だと思う。 そんな人達が俺の為に・・・そう思って感動していると、アスランさんが思い出したように口を開いた。 「・・・バッチリ・・・ってことは、俺達にもキスのご褒美があるわけだしな。」 「っ!!!」 口の中に入っていた食べ物が、勢い良く喉に詰まった。 むせ返っている俺の背中をさすりながら、キラさんは水の入ったコップを差し出して。 「楽しみだな、シンからのキスなんて。」 俺はすっかり忘れていたこの重大な問題を、どうしたらいいのか分からずに、とりあえず差し出された水を一気に飲み干した。 ・・・ここで冒頭に戻る。 「・・・う・・・そだろ・・・?」 大きな紙に始めて書かれた自分の名前。 結果は、学年48位。 俺が、100番以内どころか50番以内だなんて・・・。 何かの間違いだ。 記入ミスだ。 誰かと間違われて・・・いや、もしかしたら見間違い・・・ けれど何度か目を擦って紙に視線を戻すと、やっぱり48位のその場所には、確かに『シン・アスカ』と書かれている。 間違いなく俺の名前だ。 同じ名前の奴は、1年にはいなかった筈だから。 これは現実。 本当に俺は48位・・・! そう実感すると、知らず内に気分が高調してくる。 不意に背中に視線を感じて振り返った。 「「おめでとう」」 俺が振り返ると言葉を揃えての、その言葉。 そこには相変わらず綺麗な微笑みを湛えたアスランさんとキラさんの姿。 学校内の有名人に、視線が集まっている事にすら気がつけなかった俺は、思わずその二人のもとへ駆け寄っていた。 「キラさん、アスランさんっ!!」 「48位・・・凄いじゃないか。」 「はいっ!!もう、自分のことじゃないみたいで!!」 「よかったね。」 「はいっ!!これもキラさんとアスランさんのお陰です!!」 あまりに嬉しくて嬉しくて。 もう、嬉しいしか頭になかった俺は次のキラさんの言葉に固まった。 「・・・じゃあ、キスのご褒美貰わないとね。」 「は・・・っ?」 俺は、笑顔のまま凍りつく。 「約束だしな。」 「え・・・あの・・・」 忘れていた。すっかりと。 さっきまでは一大事だと思っていたことなのに、生まれて始めての快挙に俺は浮かれきっていたのだ。 「ここでとは言わないよ。冬休みに・・・」 すっかり固まってしまった俺の頬に手を伸ばしながら、キラさんが言葉を続けようとしたけれど。 俺は『冬休み』という単語に、俺の頭の中にはどうしても冬休み補習から免れたかった理由が駆け巡った。 「あ、俺冬休み実家に帰りますから!」 俺の言葉に・・・ 「え?」 「は?」 アスランさんとキラさんが、珍しく固まった。 俺は気にせず言葉を続ける。 「終業式終わったその日に実家に帰るんです!良かった、補習になんなくて!!」 終業式は、明日。 テストが終わって結果が出て、そしてすぐに終業式だ。 夏休みは部活の合宿があって、実家には帰ることが出来なかった。 それを告げた時の妹の今にも泣きそうな顔が、不意に頭に浮かぶ。 マユ・・・!やったよ! 心の中で、妹のマユに向かってそう叫んだ。 「キラさん、アスランさん本当にありがとうございました!じゃあ、俺はこれで!!」 固まったままの二人をそのままに、俺はこの場から逃げようと踵を返そうとした。 しかし、足が廊下を蹴る前に、俺の腕は二人の掌に捕まえられてしまって。 恐る恐る振り返ると、案の定にっこりとそれは綺麗に笑った・・・その表情。 「じゃあ、今ここでキスして。」 「えっ?!」 「そうだな、冬休みにと思っていたのに・・・いないんだったら仕方ない。」 言葉と共に右頬にはキラさんの手、左頬にはアスランさんの手と、両頬を押さえられて、俺は本当に慌てた。 「シン・・・」 今にも溶けてしまいそうなほどに甘い声色で名前を呼ばれる。 そして走っている時に見せる、真っ直ぐな紫の瞳と翠の瞳と目が合った時、身体が自分でもわからない程に動かなくなってしまって。 思わず、このままキスしちゃっても・・・と考えてしまう。 けれど、俺は気付いた。 俺と同様に順位を見に集まっていた生徒の視線が、皆こっちを向いている事に。 「ぁ・・・あ・・・・・」 見られている、ということを実感し、顔が熱くなっていく。 「・・・シン?」 そんな俺を不思議に思ったのか、一瞬二人の手が俺の頬から離れて。 俺はその隙に、アスランさんとキラさんの傍から勢い良く離れ、人込みの中を駆け出した。 俺、何考えた? キスしてもいい・・・なんて・・・ あのまま誰もいなかったら、俺絶対にキスしてた・・・!! 赤くなった顔を俯かせたまま、俺は夢中で両足を動かして動かして・・・ でも習慣からか、気付いたら自分の教室まで戻ってきていた。 噂が広まったのか、終業式までの24時間。 俺は背中に突き刺さるような視線に耐えるのと、追いかけて来るキラさんとアスランさんから逃げるのに必死だった
|