ゆっくりどうぞ 2 その赤が、焼き付いてしまった様に頭から離れなかった。 少年の手にある財布を見たアスランは、本当に驚いた。今まで落としたものが見つかったことなど、一度として無かったのに。あの手の中にあるものはなんだ、どうしてここにあるのかと、経験上混乱してしまってすぐに喜ぶことが出来なかった。 (落ち着け・・・きっと中身が無いに決まってる。きっとそうだ。) そんな事を考えて平静を取り繕うとする自分に疑問を感じる事も無く、アスランは見開いた目を何度か瞬きさせる。 幸運に見放されて生きてきたアスランは、幸運を受け入れる事に酷く不器用だった。 「なあ、これ・・・あんたのなのか?」 不意に聞こえた声に、我に返る。とりあえずあの財布は自分のものであることは間違いない。例え中身が無くても、あの財布事態は自身のものなのだ。 「あ、ああ…そうなんだ」 少年に頷いて答えると、少年の表情は見るからに安堵したものに変わった。その変化がアスランには理解できず首を傾げる。 「良かった…!心配してたんだよ、俺!」 「・・・心配?中身が入っていないからか?」 「はあ?何言ってんだよ、あんた!ちゃんと中身入ってるから良かったって言ってんだろ?!」 中身が入っていない事を前提にしたアスランの言葉に、少年は赤い瞳を細めた。そして財布を開いてこれでもかという程にアスランの目の前に突きつけてくる。 財布の中には朝に引き出してきた札束がぎっしりと入ったままだった。減った様子のない質量にアスランが目を白黒させていると少年は、減ってないだろ、と声を荒げる。アスランは押されるように頷いた。実際、減っているようには見えなかった。 少年はアスランが納得したのを見て、細めていた瞳をどこか呆れたように綻ばせた。 「だって拾ってあけてみたらすごい額入ってるし・・・困ってるんだろうなって思ったけど、身分証明書とかも入ってなかったからちゃんと届くか心配で…でもよかった」 そして手に持っていた財布をアスランの胸元に押し付ける。反射的にそれを受け取ると、少年は口元を上げて笑った。 「今度は落とすなよな、ちゃんと持ってろよ。」 少年の指先が財布から離れる。そのまま立ち去ろうとしている背中に、アスランは焦った。何に焦ったのかは自分でも分からない。 ただ、このまま名も知らぬこの少年と別れてしまえば、きっともう二度とあの赤に出会う事はないだろう。 焦燥に駆られて伸ばした手は、少年の腕を掴んでいた。 「まってくれ…!!」 「へ?」 掴んだ腕は思っていたよりもずっと細いものだった。振り返った赤は突然身体を引かれたことに、心底驚いているようだ。アスラン自身も驚いた。一体何をやっているのか、引き止めてどうするつもりなのか。そして考えた。仕事でも普段ここまで使わないだろう、という程に頭を巡らせる。 どうしたいのか。自分は何がしたかったのか。 けれど冷静に考えるとすぐに答えが浮かんできた。離れたくないのだ、この赤い瞳の少年から。このまま離れて、終わりになんてしたくない。 「お礼、させてもらえないか…?!」 思い切って口に出したそれに少年は一瞬間をおくと、声を上げて笑った。少年は元から幼い顔つきをしているが、こうして笑うとそれ以上に幼く見える。アスランは目の前で笑う少年の姿を、呆然として見ていた。細腕を掴んでいた手は、いつの間にか外れていた。 「鬼気迫ったような顔で何言い出すのかと思ったら・・・そんなの別にいいですよ、当たり前のことしただけだし。お礼目的で届けたみたいで、イヤだし。」 「そ、そういう訳じゃないんだ!気にさわったなら謝る、すまない…っ」 「はあ…」 検討もつかなかった少年の言葉に、アスランは再び焦った。 しかし、少年もまた何気なく言った自分の言葉に本気で焦っている青年、それもとてつもなく綺麗な顔をしたその人の情けないとも言える姿に、焦ったのだ。上等なスーツに身を包み、手に持っている鞄も有名なブランド品。見たところエリート中のエリートなのだろう。けれど、そのエリート美形青年が自分のようなしがない高校生に今にも頭を下げてきそうな勢い。アスランに非がないのが分かっているだけに、焦らずにはいられない。 アスランはそんな少年の思いも知らず、どこか青褪めながら、それでもまた懸命に口を開いた。 「でも本当にお礼がしたいだけなんだ、信じて欲しいっ!このままじゃ俺の気がすまないんだ!お願いだ、礼をさせてくれ・・・っ!」 折れたのは少年だった。あまりにも必死なその形相に、思わず噴出してしまう。 「あ…んたって…面白い人ですね…!」 「…そうか…?」 「そうですよ!もう…これで断ったら俺が悪人みたいだ。」 「すまない…、でも…!」 また表情が凍りついたアスランに、慌てて少年は口を開いた。 「あー、はいはい!わかりましたよ!お礼とやら、受けますからっ!」 「本当か…?!」 「はい、で、何してくれるんです?」 アスランは固まった。お礼を、と言ったのはいいが、何も考えていなかった。それに相手はまだ学生で、何をしたら喜ぶのかも良く分からなかったのだ。 結果・・・ 「…君は何がいい?」 こうして、疑問系で返してしまって。 「俺ですか?それを俺にきくんですか…って、ああ!遅刻するっ!!」 問われた言葉に答える前に、少年は視界に入った時計を見て目を見開く。アスランも続いて時計を見るなり、呆然と口を開いた。 「俺もだ…」 「すみません!俺もう行かなきゃいけなくて…!」 少年は背負っていた鞄の中から慌しくノートとペンを取り出すと、勢い良く紙上に何かを書き出す。そしてペンを止めると、ノートを破き、その切れ端をアスランに突きつけた。 「これ!俺の携帯番号ですんで!その気あったら、夜にでもかけてください!」 「あ、ああ…」 急いでいる少年に押されるように紙の切れ端を受け取る。少年はアスランが受け取ったのを確認する余裕もなく、次こそ本当に人込みの中に走り去ってしまった。 アスランも慌てて会社に電話を入れ、遅すぎる遅刻の連絡を入れた。すると社内でトラブルがあったらしく大至急来るようにと言われ頷いたはいいものの、電車が人身事故の為に遅れることを伝えるアナウンスが電話を切った直後にアスランの耳に入った。 溜め息を吐いて時刻を再び確認しようと腕時計に目をやる。そしてふと、手の中にある無くした筈の財布と、少年から渡された紙を改めて見た。自然と口元を綻ばせながら、それらをそっと握り締めた。
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