2、冷たい雨の降る夜に。 ほんの数時間前までは気持ちいいくらいの快晴だったというのに今では見る影も無い。 地面を叩く雨の量を見ながら、朝の太陽の明るさは嘘だったのかとシンは溜息を吐いた。 「シン、傘持ってるのか?」 店内の窓からこっそり外を覗いていたシンに、バイト仲間であるヨウランが声をかける。 ヨウランには、シンが傘を持っていなくて、どう帰ろうか途方に暮れているように見えたのだろう。シンは背負っていた鞄の中から傘を取り出し、それをヨウランに笑って見せた。 「天気予報見てきたからさ、折り畳み傘持ってきてるんだ。」 「そっか、じゃあ大丈夫だな。気ぃ付けて帰れよ!」 手を振るヨウランに、シンもお疲れ様、頑張れよと声をかけて手を振り返す。ヨウランはこれからシンと交代でシフトに入るのだ。 バイト先である宅配ピザ店の裏口から外に出たシンは、室内から見るよりも酷い天気に、再度盛大に溜息を吐きながら傘を開いた。 バイト先から家までは、電車で3駅ほどの距離がある。 あの店はシンのようにアルバイトとして働く学生も多くいるが、皆近場に住んでいる。電車になど乗らなくても充分歩いて来られる距離に皆が住処を持っているのだ。 シンの場合は家からは多少の距離があるのだが、通っている高校から近いという事でバイト先にあの店を選んだ。 働き初めてからまだ月日は浅いが、ヨウランを始めアルバイト仲間とも親しくなれたし、店の人達はとてもシンに良くしてくれている。店長や正社員の人も皆親しみやすく、仕事内容も分かりやすく丁寧に教えてくれた。 本当にいい職場を見つけたものだ、と満足気に一人頷いた所で、ふとこの間のバイトでの出来事を思い出す。 シンは元々調理場担当で、配達に出かける事はない。 だが、あの日はたまたま配達担当の要員が急用で一人休んでいて、他の配達組も全て出払ってしまっていて。にも係わらず配達を受けてしまい、また、その時たまたま手の開いていたのがシンだけだった。そしてシンは急遽配達に出かけることになったのだ。 初めての配達に緊張もしていたが、近場だから自転車でも大丈夫と住所を聞かされた時に、そこなら迷わないで行けるだろう、とほっと息を吐いたのを覚えている。 その、遠目から見ても目立つ立派なマンションに、あのよく分からない人はいた。 その人は、ドアを開けた途端固まってしまったかのように動かなくなり、不思議に思ったシンが何度か話しかけても答えてくれなくて。 それに苛立って思わず声を荒げてもしまった。気が長くない自分自身の事は良く分かっているが、仮にも客である相手にあの態度は悪かったかとシンは後から少しばかり後悔もした。 しかし、それ以上にその仮にも客であるあの男は、本当に訳が分からなかったのだ。 固まっていたのが解けたかと思うと、いきなり今日は僕の誕生日などと言われ、もしかしてだからまけてくれとでも言われているのかと思い、シンは思い切り混乱した。何せ配達に来たのはこれが初めてだし、接客経験も豊富とは言えばない。こういう場合にはどう言えばいいのかとシンが迷っていると、彼はいきなり一人で慌てだして。 一人で過ごす誕生日らしい、という事はその時聞いたが、シンは少し信じられなかった。 目の前で理解不能な行動をしていたその人は、本当に綺麗だったから。 さらさらの亜麻色の髪や、アメジストをはめこんだような紫色の瞳は本当に綺麗で。こういう男はこんな訳の分からない行動をしたとしてもどこか様になってしまうのかと、シンは内心悔しくも思っていたのだ。 さぞかしモテるだろう、と括っていたのに誕生日を一人で過ごすということは、彼女もいないという事だろうか。一瞬尋ねてみたくなったが、さすがにそれは止めておいた。 そしてシンはその人に、本当に子供だましのようなプレゼントをあげた。 最近気に入っていて、たまたまポケットに入れていたお菓子だったが、その人はとても喜んでいたとシンは思う。 だが、今こうして考えると何で自分があんな行動に出たのかがよく分からなかった。 シンはあまり初対面の相手と接するのが得意ではない。だから今のバイトもあまり接客をしない調理の方を希望したのだ。 だが、あの人とは初対面だという事も忘れて接していた。自分が見ず知らずの人に形だけだとしても誕生日プレゼントを上げるなんて、シン自身少し信じられない事だった。 友人達にも話してみた所、皆にシンがそんな事をするなんて信じられない、想像出来ない、らしくないと口を揃えて言われてしまった。余りの言い草に言い返そうとも思ったが、自覚しているところもあるのでその場は黙って口を噤んだのだが。 「・・・考えてもしょうがないか」 あの時のような偶然が重ならない限り、配達に借り出されることもないだろう。何分あの彼は、もう一度会えるかどうかも分からない相手なのだ。 元々考え事が苦手だったシンは、頭の中の靄を振り切るように顔を上げた。 そして、少し先にある喫茶店の屋根の下に見えた人影に、思わず目を疑う。 これは、偶然なのか、何だというのか。気付けば足は、そちらの方に真っ直ぐ進んでいた。 「・・・傘、持って無いんですか?」 「え・・・?」 店の軒先で立ち尽くしていたのは、シンが今さっきまで思い返していたあの彼だった。急にかけられた声に驚いたのか、紫の目を見開いてシンを見ている。 何も考えずに何となくで話しかけてしまったが、シンははっとする。 たったあれだけ会話をしただけだ。こっちは覚えていても、この人までが只のピザ店のアルバイト店員等を覚えているとは限らない。 「・・・俺の事覚えてます?えっと、この前ピザの配達で・・・」 「うん、うん。覚えてるよ、プレゼントくれた子だよね?」 「そうです!忘れられてたらどうしようって、一瞬ひやっとしましたよ!」 覚えてるという言葉に安堵して肩を落とすと、小さく声を上げて、目の前の彼はまた笑った。 「忘れる訳ないよ。プレゼントくれた子を忘れるほど僕は薄情じゃないつもりだよ?」 (うわ・・・) なんて顔で笑う人なんだと、向けられた顔に、思わず見惚れてしまう。 花が綻ぶような笑顔とは、こういうものをいうのだろうか。冷たい雨が降り続ける夜だというのに、顔がぼうっと熱くなっていくのが分かる。この街灯だけが頼りの暗がりだからいいものの、そうじゃなければすぐにシンの異状は気付かれてしまうだろう。 これではこの間の状況と全く逆だ。寧ろこっちの方が状況は思わしくない。男相手に何頬染めてるんだ。 シンは顔の熱を振り捨てるように頭を軽く振って、紫の瞳に視線を合わせる。 「あ、あの!!」 「なに?」 「か、傘、持ってないんですか?!」 気を取り直して最初と同じ質問をすると、彼は困ったように眉を寄せて頷いた。 「うん、だから雨宿り。でも止みそうに無くて困ってたんだ」 「家って駅の近くですよね?」 「そうそう、帰り道に降られちゃって。少し待ってみて止まなかったら、走って帰ろうかと思ってたんだけど・・・。この雨じゃ走るしかなさそうだよね」 しょうがないけれど、と力無く言われシンはやっぱりと思う。亜麻色の髪は濡れて顔に張り付いているし、彼の身につけている服も、心なしか水分を含んでいるように見える。 そこで初めて、シンはその彼が見知った制服を着ている事に気付いた。シンの通う高校の近くにある学校のものだ。 だが同じ高校でもその学力にはかなりの差があって、片や平凡な公立高校と、片や国内でも有名な進学私立校。言う間でも無くシンは前者の高校に通っている。 近所の学校という事もあって噂はよく耳にしていたが、実際にそこの生徒と話すのは初めてだった。 ベージュを基調とした上品なデザインのブレザーは彼によく似合っている。 因みにシンの制服はしごく普通の学ランだ。それなりに似合っているだろう、とシンは思っている。 「・・・じゃあ、良ければですけど、一緒に入っていきます?」 耳に入る良くない噂では、頭の良さを鼻にかけた嫌な奴ばっかりの学校だと聞いた事がある。 この人がそうだとは思わないけれど、その噂が頭の片隅に過ぎりなんとなく切り出しづらくなったが、シンは伺うように自分の差していた傘を彼に傾けて見せた。 「え・・・?でも・・・いいの?」 「俺どうせ駅まで行くし、あのマンションなら少し遠回りするだけでいいんで・・・」 シンの言葉に驚いたように紫の目を見開いていたが、それも最初だけだった。 「ありがとう・・・じゃあ、お願いしようかな」 彼はふわりと笑い、シンの差す傘の中へと入ってきた。 同じ傘の下に入って夜道を歩く。シンが持っていた筈の傘は、早々に隣を歩く彼に奪われてしまった。 曰く、『僕の方が背が高いよね?それに入れてもらってるんだから、これくらいしないと』が理由らしい。シンは気にしなくていいと言ったが、にこりと微笑みかけられて何も言えなくなってしまう。どうやら自分は相当この彼、キラの笑顔に弱いらしい。 「シンはいつからあのピザ店でバイトしてるの?」 最初名前を教えた時、シン君と呼ばれ、何だかその呼び方にむず痒さを覚えたシンは、呼び捨てて構わないとキラに言った。そうすると、僕もキラでいいよと返されて、シンは一瞬返事に困ってしまった。話を聞けばキラはシンより二つほど年上だし、学校は違うが一応先輩に当たるのだ。 それでもそう呼んで欲しい、と言われれば強く拒絶するのもどうかと思ったし、ついでに敬語も止めてほしいなと言われて、シンは本人がいいと言っているならいいかと頷いた。 「2ヶ月くらい前からかな、一人暮らし始めて金稼がなきゃってのと、高校の近くだしいいかなって思って。」 「一人暮らししてるの?」 キラが少し驚いたように目を丸くする。 「うん、ああでも実家だけど。父さんの仕事、海外勤務に決まってさ。母さんと妹はそれにくっついて行ったから、今は家に俺一人。」 「反対されなかった?」 「まあ、少し・・・でも俺の高校の合格発表されてすぐに、本当急に決まったんだ。折角必死に勉強して高校合格したのにさ、海外行ったら勿体無いじゃん。それに元々両親共働きで俺が家事してたんだし、実際あんまり変わんないし」 キラには少しと言ったが、本当はかなり反対されたし、何がなんでも連れて行くとまで言われていた。 結局両親が折れてくれたのは、バイトをして光熱費は自分で払う、自分の小遣いも自分で稼ぐ、それに春から通う高校には中学からの友人も多数合格が決まっており、とても楽しみにしているのだと言い切り続けたシンの意地と、今までシンに家事を任せきりにしていた両親の、シンに対する少しの罪悪感からで。 そのせいかシンは、自分が使ったものものは全て自分で払うと言ったが、両親は毎月授業料以上の額を仕送りしてくれている。けれど自分で払うと勢いづけた手前、手を付けるのが嫌で、本当に授業関係の事でしかそのお金に手を付けていない。 元々物欲はあまりないし、母の勿体無い精神を受け継いだのか、シンは元より節約が得意だった。 今の所の一人暮らし生活も、両親に啖呵を切った事は守れているのでシンは充分に満足している。 唯一の心残りは妹のマユに最後までおにいちゃんも一緒に行こう、と涙ながらに言われた事だけだ。向こうに無事に着いたと国際電話が来た時も、今からでも来てと泣きじゃくっていた可愛いマユ。今はもう元気に暮らしているだろうか、と妹との思い出を噛み締めていると、隣を歩くキラがぽつりと呟いた。 「・・・シンはえらいね」 物凄く感慨深く言われてしまい、シンは少し戸惑った。 本当にシンにとってはごく普通の事なので、そう偉業を成し遂げている最中のように言われても、なんと返したらいいかわからないのだ。 「そんな大層な事じゃないって。俺にとってはずっとこれが当たり前だったからさ」 「それが凄い事なんだよ」 「・・・そんなことは、」 「あるんだよ」 けれど何度も念を押されるように言われ、シンは僅かに頬を緩めた。 褒められる事は嫌いではないし、キラに言われるとなんだか、そうなのかも、と思ってしまう何かがあるような気がして。 でも、とシンは思う。 家事はこなしている。バイトもして金銭面の部分でも何の心配もない。 けれど、 「・・・実はさ、バイトと家の事両方してたら時間無くて・・・成績、やばいんだ・・・」 学生の仕事は勉学に励む事である、というのをどこかで聞いたような気がする。しかし、シンの今の現状ではその勉学が一番疎かになっている状況で。 バイトから帰り風呂に入ると、その次には寝てしまう。早く起きて弁当を作るためだ。コンビニ弁当なんかよりもずっと経済的だからだ。 そして睡眠不足になり授業中寝てしまい、現に少しずつだが授業に追いつけなくなってきている。今日の数学の小テストも散々だったと愚痴を零すと、キラがじゃあさ、と妙に生き生きとした声で言う。 「良かったら僕が勉強見てあげようか?」 「へ?」 「こう見えても僕、頭の方は自信あるから。それに教え方も上手いって評判なんだよ」 「いや、頭悪そうには見えないけど・・・でも・・・そんな、悪いよ」 そもそもキラはあの有名進学校の在校生なのだ。自分よりはよっぽど出来るのだろうと思っていた。 けれど、キラがシンの勉強を見てくれるという事は、その分キラの勉強する時間がなくなってしまうという事だ。また噂だが、キラの高校の生徒は授業が終わった後には塾に行き、家に帰ってからも予習、復習で忙しいと聞いた事がある。 完全に混乱しきっているシンに対し、キラはころころと笑っている。 「いいの、いいの。折角こうやって知り合えたんだし、使えるものは利用しちゃいなよ。ね?」 「利用って・・・」 「それとも僕はシンの先生役には不合格かな?今日初めて名前を知ったような仲だし、信用出来ないかな・・・?」 笑っていると思えば、急にそれはそれは物悲しそうな顔をされて、シンはまた慌ててしまう。 確かにキラとはこの前の配達で、そして今日たまたま会ったような関係だ。けれどキラとこうして肩を並べて歩くことは苦痛にも感じないし、寧ろ心地いいとすら思う。人見知りな自分が、こんなに自然体で初対面の人と話せる事自体珍しいのだ。 キラさえ良ければ、これからもたまにこうして話ができたらと内心少し考えていた事もあって、シンはキラの問いに大きく首を振った。 「そ、そんなことないけど!」 「よし、決まり!詳しい事はまた今度決めようか、それでいいかな?」 「ぇ、あ、ああ?うん?」 「それなら連絡先交換しないといけないよね。携帯の番号とメアド教えてくれる?」 シンが頷いた途端に、キラはころりと表情を変えて話を進めていってしまう。どことなくキラに置いていかれているように感じながらもシンは相槌を打って、携帯電話をズボンのポケットから取り出した。 今ではこうして番号やアドレスを交換するにも、赤外線通信というとても手軽な方法がある。便利な世の中になったね、とキラはやっぱり笑って言った。 「僕のもちゃんと登録してね?着信拒否とかしたら嫌だよ?」 「そんなことしないっての!」 「じゃあ、約束」 キラに傘を持っていない方の手を差し出されて、シンは文字通り一瞬固まった。小指だけが立っているキラの手。それが促している事柄はシンにも覚えがある。 幼い頃、母親や妹と約束を交わす時によくそうして小指だけを繋げて、お決まりのフレーズを・・・ 「シーンー?ほら、約束約束」 少しの間懐かしいあの頃に戻っていたシンは、キラの声に現実に戻される。思わずキラの顔を見てみると、それこそ幼い子供が心を躍らせているような。そんな眩しい笑顔でこっちを見ているものだから。 シンは半ば諦めたように苦笑して同じように小指を立てた手を差し出した。 ゆーびきーりげーんまーんと小指を絡ませ、キラが懐かしいその音を口にしている。何故だかキラがとても楽しそうに、嬉しそうにしているから、シンもつられて笑ってしまった。 指切った、で小指を離した時、もう一度『約束だよ?』と念押しされて。少し呆れたように二つ返事で答えたシンに、キラは満足そうに頷いた。 そうして歩いている内に、キラの住処であるマンションに近づいていく。高さがあるせいか、遠くから見てもよく目立つが近くから見るとまた圧巻だ。 道路からオートロックのガラス扉がある共同玄関までは綺麗に整備された屋外での休憩スペースらしい。見渡すと十分な広さがあるのが分かり、幾つかのベンチが置かれているのが見えた。前にここに来た時も夜だったが、綺麗に花や緑が植えられたこの場所は、晴れた日に見るともっと綺麗に見えるだろう。 そこを抜けてオートロック式の扉の前までいくと、キラが傘から抜けてシンに向かい合う。 「今日は本当にありがとう・・・あ、一人で夜道歩くの危ないし、良かったら家まで送るよ?車すぐに出せるから」 お礼と共に頭が下げられたと思ったらそのままキラに顔を覗きこまれて。挙句の果てに車を出して、シンを送るとまで言い出されて。 女の子じゃあるまいし、夜道の一人歩きくらいたいした事は無い。現にバイトが長引いて、もっと遅い時間に帰る事だってあるのだ。 「えっ?!いいよ、そんなの!駅すぐ近くだし!!」 「そっか、残念だな」 「じゃ、じゃあ俺帰るから・・・っ」 何で残念なんだ、とシンは胸中で思ったが、口に出さずにそのままキラと別れた。わけもなく小走りで道路まで移動して、キラの姿が完全に見えなくなった所で速度を落とした。 二人で歩いてきた道を一人で歩く。二人で入っていた傘が、妙に広く感じた。 傘に当たる雨音もキラと別れてから強くなったような気がした。 歩きながら携帯電話を開きほんの数分前に登録した番号を画面に呼び起こす。 そこにある『キラ・ヤマト』の名前を一目確認しただけで、携帯電話をポケットの中に押し込んだ。自然と弛んだ口元を心なし引き締めて、シンは駅までの道程を急いだ。 (お題をsham tears様よりお借りいたしました)
|