絶対的なもの 3 泣いて、泣いて。 枯れ果てるほどに涙を流した。 いくら泣いても、名前を呼んでも、求めてやまないたった一人は決してくることはない。 どれだけ涙を流しても、その涙を拭ってくれる人も誰もいない。 部屋にはただ一人。 それを頭で理解していても、込み上げてくる涙を止めることは出来なかった。 嗚咽を押さえることもせず声を出して。 零れる涙で服もシーツも濡らして。 遠くなる意識をどこか他人事のように感じながら俺は泣き果てて、眠りについた。 目覚めて時間を見ると、日が昇りきった後だった。 光が入らない部屋は相変わらず暗いままだ。 「・・・レイ・・・」 隣のベッドを横目で見た。 綺麗なベッドが目に入り、再び瞳に熱いものが込み上げてくる。 寝起きの悪いレイを起こすことが、日課だった。 朝のレイは本当に手がかかって、毎朝耳元で思いっきり怒鳴ってやっていた。 大変だったけれど面倒とかそういうのは感じることなんか無くて。 レイの為にしてあげられることなんだ、と思うとそれさえも嬉しくなって。 けれど、これからはそんな些細なことすら出来ないのかと。 枯れ果てた筈の涙が、一筋頬を伝った。 「・・・ぅ・・・っ」 大丈夫だ、と思ったのに。 拒絶されても受け入れることが出来ると思ったのに。 こんなに未練がましくてどうするんだ。 もうレイの近くにいることすら許されないのに。 ただ抱かれることすらもう、無いのに。 でも、だけどこれで良かったのだと。 俺は流れた涙を乱暴に袖で拭い、ベッドから起き上がった。 「・・・つっ・・」 途端にくらりと、視界が揺れた。 頭に鈍い痛みが走り、俺はそれを手で支えるようにして頭を押さえ、立ち上がる。 この痛みは、久しぶりに大泣きしたせいだと思った。 一歩足を踏み出す度に容赦ない痛みが頭部に走る。 今にも倒れそうなくらい足が震えて、それを必死に我慢しながら洗面台まで歩いた。 力の入らない手は何をするにも困難で。 それでもなんとか顔を洗って、ふと、鏡を見た。 「・・・はっ・・・すごい、顔・・・。」 思わず笑いが込み上げてくる。 上半身が映る大きな鏡に映った自分。 その顔は本当に酷いものだった。 皺になって乱れた軍服に、腫れた瞼、一目で泣き腫らしたと分かる赤く充血した眼。 「・・・これじゃ、どっちが瞳か・・わかんない、な・・・。」 白いはずの部分が赤く染まった眼。 元の瞳が紅いせいもあって見るにも無残なその姿。 自分のその姿をそれ以上見ていたくなくて、俺は冷水を頭から浴びた。 冷たい水はとても気持ちのいいものだったけれど、足から力が抜けてその場に座り込んでしまったのもすぐ後だった。 濡れた髪から冷たい水滴が滴り落ちる。 それを手元にあったタオルで乱暴に拭い、動く気も失せてその場に座り込んでいた。 勢いよく流れる水音が、とても遠くに感じる。 こんなに水出してたら、レイに怒られるな・・・。 考えることを放棄してしまったような頭でも、レイの言葉だけは浮かんできて。 あまり几帳面ではない俺にレイはよく顔を顰めながら注意して、そんなことを思い出していた。 「・・・何をしているんだ。」 「・・・え・・・?」 頭上から聞こえた声に、頭痛すら忘れて俺は顔を上げる。 「・・・レ・・・ィ・・・?どうして・・・」 「ここは俺の部屋でもある筈だが。」 「・・・ああ、そうだよな・・・。」 どこか期待してしまった自分に、つくづく馬鹿だと呆れ返る。 ここは俺の部屋でもあるけどレイの部屋でもあるのだ。レイがいておかしいことは何一つない。 決められた規則で、レイはここにいるのだと。 ここがレイの部屋でなくなることは無いのだと。 いつもの俺ならそれが嬉しいと思うのに。 今の俺には辛すぎる、微妙な距離。 姿が見えない、と泣くこともできない。 触れられる距離にあるのに触れられない。 望むことすら許されない。 考え出すとレイにかける言葉なんて見つからない。 ただ黙って、俺は立っているレイに見下ろされるまま俯いていた。 「・・・お前、予備の軍服に着替えろ。それは酷すぎる。」 黙っている俺に、レイは冷たい声で言い放つ。 その声が、今まで感じたことがないほど冷たいと思うのも、きっと気のせいではない。 随分と皺になってよれている軍服は随分と見苦しいものなのだろう。 先程、少しだけ鏡を見ただけで自分でも酷いと思った程だ。 レイの目には、きっと俺が見た以上に酷く映っている。 そう思うと、余計にレイの顔なんて見ることは出来なくて。 俺は座っていた身体を無理矢理立たせる、頭が痛むのを覚られないよう、レイの顔を見ないよう、俯いたままレイの横を通り過ぎた。 まずはレイに言われた通りに、着替えようと思った。 レイは何も言わない。 何も言わずに、出ていた水を止めていた。 せめて、一言でも注意してくれたら。 俺は、綺麗な赤い軍服を手に取り、着ていた服を脱ぎ捨てた。 また本当に最初からやり直せたら。 そこまで考えて、俺は苦笑した。 やり直したってどうせ何も変わらない。 また俺は昨日までのように気紛れにレイに抱かれて、俺もレイを好きになって。 それでも、もしもやり直せるのなら。 好き、と。 それを、その言葉だけを伝えたい。 綺麗な赤に袖を通し、床に散らばった、今着ているものと同じはずのものに視線を落とす。 脱ぎ捨てた見事に皺のついた服。 なんだかそれが、自分のように見えた。 すぐに治まると思っていた酷い体調は相変わらずで、訓練中も俺の身体を蝕んでいた。 相変わらず頭痛が酷い。 身体も重くて仕方が無く、眩暈まで感じる。 今日は白兵戦の訓練で、上官が演習の説明をしている。 俺は立っているのが精一杯で、その説明すら聞く余裕が無かった。真っ直ぐに立とうとすると視界が眩んで足がふらつきそうになる。 それを必死に抑えて、 最早気力と意地だけで立っていた。 「シン・・・っ!!ちょっと大丈夫なの・・・?!」 隣からルナマリアの心配そうな声が聞こえる。 その顔は少し青褪めていて、そこまで心配されるほどに酷いのかと、自分のことなのに他人事のように感じた。 「・・・平気。」 「どこが平気なのよ!あんた自分の顔見てるの?! 「見てるって・・・」 言葉を出すのも辛くて短い答えしか出すことが出来ない。 「・・・本当に、今日の訓練休んだ方がいいわ。私、上官に言ってくるから、シンは部屋に戻って・・・」 「ルナッ!!」 足早に去っていこうとするルナマリアに、俺は消え入りそうになっている気力を振り絞って呼び止めた。 「本当に、平気だから・・・。」 半ば懇願するようにそう言うとルナマリアは顔を歪めて俯いた。 いつも強気で明るいルナマリアにそんな顔をさせてしまったことに、胸が痛んだ。 心配してくれているのは解る。 好意を拒否するのも、今の俺には辛いものだったけれど。 あの部屋に、今は、今だけは戻りたくなかった。 だから、どんなに身体が辛くたって今の俺にはここに立っている方が、ずっと気持ちが楽になれるから。 ルナマリアだけではない。 どの人も、俺の顔を見て表情を変えていた。 すれ違う人にさえも大丈夫なのかと声をかけられて、その度に平気だから、と答える。 いつも鬼のように厳しい上官でさえも、気遣いの言葉をくれた。 流石にそれには苦笑して、それでも平気です、と変わらない答えを返した。 そういえば朝ヨウランに会ったときも、同じように、いや、ルナ以上に痛々しい顔をしていたのを思い出す。あの時はヴィーノも一緒にいたから、特に何も言われなかったけれど。 でも、レイだけはいつもと何も変わらない。 元々レイから声をかけてくるなんて無いに等しかったし、俺もそれに合わせて声をかけようとはしていなかった。 今日も変わらずその調子だ。 けれどいつもと違うのは、俺がレイを見ようとしないこと。 見ないように、視界にすら入らないようにと俺は自身に言い聞かせていること。 今まではレイの綺麗な髪や姿が、ただ視界に入っただけで嬉しいと思っていた。 稀に瞳が合うと本当に嬉しくて嬉しくて堪らなかったのに。 今はレイの姿を見ているだけで何もかもが砕け散りそうになる。 レイの声も、姿も。 映してしまうと、きっと立っていられない。 それはわかっていたのに。 俺の全てが砕けて、粉々になって、もう元に戻れなくなってしまうのに。 無意識の内に一瞬だけ見たレイの瞳が、俺の瞳に合わさった時、俺の身体は力を失ってその場に崩れ落ちた。 「・・・シンっ!!!」 暗くなった視界で、聞こえたのは、狂おしい程に求めていた、たった一人の声、俺の名前を呼ぶ、レイの声だ。
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